None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

えくそとろぴー。

なんとなく、手元にある本を「いいな」って思ったときに、写真を撮ってついったーに投稿してきたのだけれど、「まとめて」話をしたいときにはちょっと据わりが悪かった。

 

僕が読む本を選ぶとき、「今読んでいる本」にフックされて芋づる式に辿っていくことがある。というか、そういう選び方がほとんど。

 

断片で話していると、関心があっちに行ったりこっちに行ったりしている様に見えるだろうなとは思うけれど、自身としてはクリック広告よろしく「ここをもっと知りたいな」を辿っている感覚なので、全部繋がっている、のです。

 

 ◆苫米地英人、宇宙を語る

苫米地英人、宇宙を語る

苫米地英人、宇宙を語る

 

 

昨年からお世話になっている鍼の先生に薦めて頂いて以来、苫米地英人さんの著作を狂った様に読んできた、というのが2016年の上半期でした。 

 

その中で頭をガーン、と殴られた様な衝撃を受けたのが本書『苫米地英人、宇宙を語る』。そう、『 ホーキング、宇宙を語る』を意識されています。

 

本書で主張される、「時間の流れる方向」は、「未来から過去に向かって」というものでした。これだけ見ると荒唐無稽なのだけれど、「いま僕たちが生きている世界は何故あるのか?」という問いと、「寂しかったから」という答えをセットに展開される、宇宙が向かっていく方向性・情報空間 / 物理空間の位置付け・人間⇔機械の将来のお話に惹き込まれて、同著者の作品の中で一番のお気に入りになりました。

 

 ◆未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法

 

 

秘書生活を始めてすぐ、出席した会合のゲストとして招かれていた佐藤社長。

政治家を相手に臆することなく「日本国への憂い」と「訪れる未来」を語る姿が妙に格好良くて、その日のうちに手に取った著作。 

 

読んでいて、先の「時間は未来から過去へ向かって流れる」で展開された論の空気を感じました。

 

世の中は、「感情」と「経済」と「テクノロジー」の3軸が引っ張り合って動いていく。

「感情」が求める世界を、「テクノロジー」が可能にし、それを「経済」制約が乗り越えたとき、世の中は一気に動く。どれが欠けても動かないし、どれが欠けても淘汰される。「世の中が動き、向かっていく未来」は決まっていて、あとは「誰かが」「どこかのタイミングで」やるかだけだ。先進的な企業が目指していることは、驚くほど似通っている――。

 

ちょうど、自動運転車とかAIとか、準天頂衛星とかセンサーネットとか。そんな、「テクノロジー」から想起される話題が身の回りに溢れている時期だったので、その「似通った未来」を知りたくなりました。というか、「宇宙を語る」で述べられた「非物質」の情報存在としての世界なんだろう、と、自分の中に答えはあるのですが。

 

 

◆テクニウム―ーテクノロジーはどこへ向かうのか? 

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

 

 

ふらっとけやき坂のTSUTAYAに行ったらこの本が平積みされていて。

以前読んだ「若手社長のおすすめ本」みたいな本で、先述の佐藤社長が本書を挙げていたのを思い出し、買って帰りました。

本書を読んでいて、『未来を先回りする思考法』に通底する考え方の着想を得たのかしら、なんて思うような内容。

 

「テクノロジーは、何を望むのか?」

 

ライプニッツニュートン微積分学発見の優先権論争、なんて話を引き合いに出しながら、「世界で、同時代に、同様の発見・発明が多発する」不思議であったり、生物進化で独立に6度も観察された「眼の進化」の奇跡であったり。生物誕生以来の時間軸を通底させつつ、「よりよく生きられる」ための変化(進化、と呼ぶのかな)に、「一定の方向性があるのでは」と問いを投げかけて展開されていく本書。

 

先の2冊と併せてワクワクしながら読んでいます。

 

 

 ◆爆発的進化論 1%の奇跡がヒトを作った

爆発的進化論 1%の奇跡がヒトを作った (新潮新書)

爆発的進化論 1%の奇跡がヒトを作った (新潮新書)

 

 

 

いつも通りの習い性でふらっと本屋に立ち寄ったら、帯に惹かれて。

 

「眼の誕生」で、世界は一変した。

 

読んでる途中の『テクニウム』を脇に置いて、とりあえず生物進化の話に没頭することにしました。「膜」から始まって「命」に至るまで。 

 

生物と無生物の間には、何があるのだろう?

(「代謝」と「自己複製」ですが。)

 

◆「読まなくてもいい本」の読書案内  ――知の最前線を5日間で探検する 

「読まなくてもいい本」の読書案内:知の最前線を5日間で探検する (単行本)

「読まなくてもいい本」の読書案内:知の最前線を5日間で探検する (単行本)

 

 

タックスヘイブン』が面白かったので、ほかの著作も、と手をだしていてたどり着いていた本書。「知のパラダイム」の転換後、ということで「複雑系」「進化論」「ゲーム理論」「脳科学」「功利主義」について語られます。

 

「読まなくてもいい本」と銘打っているけれど、上記分野のブックガイドですからね。「知のパラダイム」の転換前の学問を、ばっさりぶった切る、という意味合いです。

 

トノーニの統合情報理論の本(『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』)なんかも挙がっています(この本も面白かったですね。)。

 

 

 ◆混沌からの秩序

混沌からの秩序

混沌からの秩序

 

 

そんで、自分の関心がどこにあるのか、と探ってきて「えくそとろぴー」にくるわけです。

エントロピー」の逆。秩序です。カオスから秩序って、どうして生まれるのさ?

分子から生物が、どうして生まれるのさ?みたいなとこ。

 

読書会で読みましたね、ノーベル賞学者イリヤ・プリゴジンの『混沌からの秩序』。全然読みこなせなかったけれど。

 

 

 

そんで、『ぼくらの頭脳の鍛え方』を思い出して、

 

 

Molecular Biology of the Cell

Molecular Biology of the Cell

  • 作者: Bruce Alberts,Alexander Johnson,Julian Lewis,David Morgan,Martin Raff,Keith Roberts,Peter Walter
  • 出版社/メーカー: Garland Science
  • 発売日: 2014/12/02
  • メディア: ペーパーバック
  • この商品を含むブログを見る
 

 

こんな本に手を出そうかと血迷ってしまったりしている。

 

それが最近のぼくです。

 

 

 

 

『世界』を捉える白地図を、

手に入れていく感覚があって。

 

先週、今週と読書会があって、テーマとされていた本が自分にとってはそんな感覚で。『イスラーム文化』と、『ユリイカ』です。

 

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前者は宗教としての「イスラーム」を特徴づけるものについて、後者はエドガー・アラン・ポオが描いた「宇宙論」について。

どちらも日常生活ではなかなか自分の思考にのぼらないテーマなので、本を読むこと自体もこの本について話をすることにもエネルギーをかなり要しましたが、とても面白く感ぜられて。

 

私は特段、特定の宗教を信仰しているわけでは無いので、今まで「宗教」というものの構造枠組みをものさしとしてもっていませんでした。今回『イスラーム文化』を読むにあたり、「啓典」がもつ意味、背後にある神と奴隷の思想、「解釈」を具現化していった「イスラーム法」、聖俗不分離という宗教観念。

「日常生活」における、やってよいこと、悪いことを「神の命令と禁止」という形で定めた「イスラーム法」は、我々日本人が持っている「法律」に対する感覚とは大きく違うんだろうな、という気がして。平生我々が「法律」に出会うのは、何か「事が起きた」とき、「事を為す」とき。何かしら、意識的なイベントが起こらなければ、想起に登ることはなかなかないわけです。行動規範として「刑罰法規」が禁止作用として働いている面はあるにせよ、普段の意思決定、行動選択の隅々まで「法」を「認識していなければ神に対する背徳となる」なんて意思感覚は新鮮で、「倫理」に近い感覚なのかなと思いました。

 

大学時代法律を学んでいた身からすると、「啓典」と「イスラーム法」の関係性が、「神の言葉」と「解釈」という関係性にあることがとても面白く。唯一絶対、正しく真なる「神の言葉」。それ自体が絶対的に「正しく」とも、それを受け取る我々人間は、これを「理解するために解釈しなければならない」のです。コーランに書かれたことが全て詳細、一挙手一投足を描いているわけでは無い以上、啓典に記された「命令/禁止」の射程、範囲、行動様式は、捉える人によっててんでばらばらになりうる。実体法―抽象法規の射程を判例などを手掛かりに画していく感覚と同様に、ハディースムハンマドの言行録)などを手掛かりに学者が「解釈」をし、法規化してきた。それが「イスラーム法」であり、これは緻密な論理の集積により人間が神の言葉の背景にある神の意思を斟酌しようとした努力の結晶なのである。

 

とはいえこれの形成過程で様々な地政、権力、文化に触れ、「啓典」を同じくしてもなお、用いられる材料が異なったり、解釈の方法や在り方が異なったりした結果、「一体でありつつも異なる」派閥が形成されてきた。

 

そんな風に、「宗教の構造」と「形成過程」に触れることで、今自分が生きている世界で同時代を生きる人々が「信奉している世界像」というものさしを得られたことで、相対的に自分の立つ位置をおぼろげに掴めそうな気がしたのです。「現世」の捉え方ひとつとっても、それは「生き方」それそのものを揺るがしかねない程大きな事柄で。「人間の在り方」にフォーカスした、世界の捉え方。人格神との契約関係により規定される、自らの生き方。翻って自分は、何を自分の「規範」として日々行動を選択しているのだろうと問うて、得られた白地図に色を塗るのです。

 

 

 

もう一冊、『ユリイカ』。

こちらは我々が生きる「物質空間の構造」(に限らず、心身二元論で精神世界=神も扱っていますが)に着目した「世界観」。

我々の世界は、その始まりから終わりまで、たった三つの概念で説明できる。それはすなわち「引力」「斥力」「放射」である。

 

原初、神はただ「単一」な物質を創造した。

そしてこの単一な物質は「拡散」の嗜欲を以て、「放射」せられた。

在るべき姿は「単一」で、ただ一時的に「拡散」という意図をもたされた、物質。

こうして世界は始まった(ビッグバンという概念が世に表れるより100年も早く描かれた世界像)。

 

世界が「拡散」仕切り、その意図を達成した時、離れようとする力は消滅する。

すると、在るべき「単一」で在ろうとする力、すなわちニュートンのいう「万有引力」だけが物質に働き、世界はまた集束し、「単一」状態へと向かっていく。

 

こうして、世界は、単一→拡散→単一という変化を辿る。

そしてまた拡散し・・・それが心臓の拍動の様に、繰り返される。

 

これが、ポオの描いた世界像で、宇宙の原理で。

 

 

小学校で理科を習い、我々が地面に立っていられるのは「地球に重力があるから」となんとなく信じているけれど、その力について「世界全体を通底する」方法で世界を記述しよう、と言うのがまず凄い。

 

宗教と、科学と、哲学と。

すべてなべて、この世界のことを理解しようとして、色々の名で呼ばれる「神」を捉えようとして、人類が長い年月をかけて培ってきた「世界への理解」。

 

この二つの本が捉えようとした「世界像」、すなわち「神」と「人間」との関係、「神」と「世界」との関係に対する、ふたつのものさし。

 

きっと私は手に入れたこのものさしを白地図として、

これから出会うあれこれを、その上に塗っていくことができるのだ。

私もまた、『世界』を捉えることに目を向けさせられてしまった人間の一人として、こんな風に絵の具を置く場所を得られたのは、僥倖だと思うのです。

 

 

『舟を編む』

「ことばの意味を知りたいとは、誰かの考えや気持ちを、正確に知りたいということです。それは人と繋がりたいという、願望ではないでしょうか。」

 

映画『舟を編む』を見ました。

「ことば」を拾い集めること、その範囲を、意味を、意図を、込められた想いを、また別の「ことば」を使って、読み手に「わかる」様に、表現していくこと。

辞書を作る、その作業の遠大な時間軸と、辞書への「信頼」を「護り遂げる」ための拘りと、「世に出す」までの裏側にある、たくさんの人の「想い」とが詰まって、「もの」がある。

 

泣き笑いしながら見ていました。

泣いた回数の方が、笑った回数よりもちょっぴり多かったかもしれません。

タケおばあさん、西山さん、松本先生が、馬締くんにかけた言葉が、抱いた想いが、なんだかとても眩しくて、それがとてもうらやましくて。

 

想いに向けられた信頼。

 

泊りがけのシーンはなんだか身近にもってる肌感覚があり、仕事に向き合う想いに惹かれる面と後ろめたさとが綯交ぜになり、もどかしさと、心強さとをもらいながら、襟を正す想いになりました。紙質ひとつとっても、そこに携わる人が本気になる。メーカーのお客さんと触れていると、日々のこと、想いがまた重なってきて。

 

うん、作中に表れる人たちの、それぞれの、背景に抱える物語を膨大に自分の記憶の中から引っ張り出しながら見ていたから、なんだかずしりずしりと。

 

ひとと、ものごとと、「向き合う」ことに、

なんだかあらためて、ものさしを授かった気がします。

 

素晴らしい映画でした。

一枚壁の向こうに

ある世界な気がしてしまう、人の口からきくお話。

 

事業環境。

世の中の大きなニュースが、経済に与えたインパクトが、大きなうねりとなって見える指標の折れ線グラフ。

きっと現場でしごとをしているたくさんの人が、陰に陽に肌感覚で感じてきたであろう、その時々の事柄を想うけれど、なんだか自分には遠い世界の話の様な気がしてしまうのは、自分がその余波にあてられずに生きているからに違いないのだろうな、と、なんだか他人事の様に想った。

 

帰りしな、日々触れているお仕事の中で、何か形にできることがあるんじゃないかなと、薄ぼんやりと考えていた。今日は朝から研修で、行政庁が金融機関なり中小企業なりに求める事柄と、そこに飯の種を見出す我々のできること、を改めて見つめ直す機会でもあったのだけれど、さて本日聴いていた事柄を、どこかの誰かにとって役に立つ様にできないものかなぁと、そんなことを想った。

 

日々私が触れている事柄は、おそらく案件進行―素直にプロジェクト・マネジメントと呼ぶべきか―なわけだけれど、これを研いでいけないかしらとふと思う。

関与案件14個、うちアクティブなものは半分くらい。全部身一つでこなそうとしても土台無理な話で、だとしたら人の力をお借りしなければならないわけで、とはいえ私が動かなければ世界は動いてくれないわけで、なんてことに気付きながらも、日々追いつかない手にもどかしさが募る。

 

「人に動いてもらう」というのはなかなかコツがいるもので、特段指揮命令系統をもつわけでもなし、たくさん貸しをもっているわけでもない私が、なんとか現実を動かして行こうとすれば自然、それは「お願いする」形を採るしかないわけで。

 

「組織」だったり「集団」だったり。

ひとりの力にとどまらず何かをしようとするとき、そこでは常にそれぞれの「思惑」と「状況」とが交錯する。

以前、後輩にツール(案件管理用の一般的なWBS)を渡してみたことがあるけれど、それ自体は魔法の杖ではない。ツールフレームワークは便利だけれど、それはあくまで補助輪であって、杖を振るのはあくまで自身。「伝えて」「動いて」もらわないことには、現実は思うようには動かないものだ。

 

世の中に、本はたくさんある。

調べれば、ネット上にそれらしい事柄はたくさん載っている。

 

貪るように読んできたし、今でも頼って触れることは少なくないけれど、

やはりそれは魔法の杖じゃあ、ない。

呪文を唱えるのは自身だ。

 

「ことば」は、便利だけれど、それそのものはそんなに強くなかったりする。

メールよりも、電話。電話よりも、対面。

それは本当にそうで、文字よりも声、声よりも表情が、人を動かす。

そんな場面に幾度も出会ってきたし、うまくいかないときはこれを忘れているときだ。

 

一本、電話をかけてみる。

声を、聴いてみる。

声を、届けてみる。

 

足を、軽くしてみる。

顔を、ちゃんとみてみる。

笑えているか、自分にたしかめてみる。

 

 

あたまんなかでうまくいっていた傑作は、

こうして現実に触れてやり直しを声高に叫ぶのだ。

 

 

 

 

そうしてやっと、一枚壁の向こうに辿りつけるのだと、

そんな風に、想った。

「そんなの、辛いだけなんじゃないの?」

向き合うのが3日越しになってしまいましたけれど、会社で上司と3時間にも及んだ面談。

さっき会社の携帯電話を確認したら、「連休中は出社しなくていいから、残り4日は面談で話したコト、よく考えて見て」とメールが来ていた。

なんだかかさぶたを剥がす感覚だ。

 

「最近どう?」

 

漠然とした質問を皮切りに始まった面談に、

 

「ひとときよりは落ち着いた様に想います。気持ちが。」

  

そう返して、この2ヶ月のことに想いを馳せてみる。

 

想えば、4月はよくやってたなぁ、とおもう。

『連続性の哲学』『マクルーハン理論』の読書会2本と『本の読み方講座』に出て、J-waveのライブに行って、パーティで料理作って、NPOに参画して、その勢いで他大学院の呑み会に飛び込んで、プライベートのあれこれに向き合い直して、そんな中で気付いたら残業3桁こなしてて。

 

書き連ねてみたら、自分のどこにこんなバイタリティが潜んでおったのだ、などとびっくりする。生来人見知りでめんどくさがりの私がよくもまあ。

 

「単刀直入だけれど、君の本音を聴きたい。君にとって、この会社に居ることは幸せなのだろうか?」

 

脚が空転している感覚があるのは事実。

 

「社外のひとと触れる機会も多い君のことだから、”ほんとにやりたい実業”が、”ほんとにいきたい会社”が、他にあったりするんじゃないのかな」

 

好奇心に拠って日々を食んでいるからさ、目新しいコト、モノ、ヒトに触れるのはテンションがあがるけれど、だからといって「他の居場所」をこと職業に関して、見定められてはいません。きっとそれは熱病の様なもので、なんとなく口にしてみているだけで。とはいえ、「ナリワイ」を模索していることは事実だなぁ、と思う。

 

まぁ職場でこんな本読んでりゃ気になるだろうけれど。

 

 

「君は、どんなことをしているときが楽しいんだい?」

 

お喋りですよ。あなたと軽口を叩いているときが、一番イキイキしているでしょう?

そう、誰かと安楽に話しているときが、楽しい時間なんだ。あるいは本読んでいるとき、散歩をしているとき、シャワーを浴びているときだ。後者三つは要するに、内省している時間、ということになるのだろうけれど。そういう意味合いでは、いままさにこうやって書き連ねている時間も好きな時間です。

 

「仕事では?」

 

なんでしょうね。楽しくて楽しくて、なんて感覚で仕事に向き合っていたことがあったかしら。一番、肌触りがしっくりくる感覚は、「凌いでいる」ということばです。

そう、日々、凌いでる。自転車操業で。「穴が開かなかった」「前に進んだ」「なんとか乗り切った」。お客様とのアポが、〆切が、毎日「越えなきゃならないハードル」として追い迫る。10件もプロジェクト抱えてたら、1件にじっくり、なんて言ってられなくて。うん、だから、私はいつも「凌いで」生きている。

 

「プロジェクトマネージャーとしては、それでいいのだと、想うけどね」

 

コンサルタントとしては、それでいいのだろうか?と疑問符だらけですけどね。

それでも日々、生起してくるお客様からの「質問」「課題」「要望」を打ちかえし続けて、お客様の都度都度の不安をやわらげられているのなら、そこには意味を見出してもいいんじゃないだろうか、と、今なら思えるかも。

 

「君はほら、よく学生と関わっている様だけど、それはどうしてなのかな」

 

"知っているか/知らないか"だけでどうにかなるもやもやを、晴らす術をもっているのに、それを伝えないことがもどかしいからなのだと思います。就職活動に向き合う学生さんに関わり続けているのも、ことばにすることにもどかしさを感じる誰かの鏡になるのも、きっと当時、あるいは今、自分が抱えて/知って/味わって/思い知ってきたもどかしさを自覚しているから、放っておけないのだと、そう思います。

 

「"教える"ことが、好きなんだろうね。」

 

中学生の頃、学校の先生になりたいと、想っていたくらいですから。

 

「そういう意味合いでは、クライアントに"教える"行為が、我々の営為であるし、そこに喜びを見いだせないのかな。」

 

行為として重なる部分はあるのだと、そう思います。ただ一方で、全ての役務がそうではないし、むしろそれは、自身の確信の差異が大きく横たわっているのではないかと思います。身近な人と向き合う際には、ある種「私が体験してきたこと」を伝えること、や「伝えたくなる土壌」の形成が主だった営為で、それは私の手になじむ「知っていること」がベースです。他方で、クライアントに向き合う際は、まだまだ「私自身にとって初めてのこと」だらけ。既に知っていることを伝えることと、自身初めて触れることを伝えることとの間には、雲泥の開きがある。「凌ぐ」感覚が強くなるのは、だからこその「不安」なのだと思います。

 

"毎日違う範囲のテストを抜き打ちで出されて、必死にテスト勉強をする感じ"とはよくいったもので、コンサルティングの役務を身近な営為に例えるなら、これがやっぱりしっくりくる。

 

読書会ではよく、自らの仕事を「話を聴けて、本が読めて、伝えることが出来ればできる仕事」だと説明するけれど、では何に「不安」を抱いているのだろう。誤っているかもしれない、伝わらないかもしれない。そんな不安を払拭するために、根拠探しに奔走して、伝えることばを選んで、伝えるイメージを描いて、それに形を与える。与え続ける。期限までに。

 

ロールモデルは、いるのかな?一年後、君はどうなっていたいんだろう」

 

能力に憧れる相手は居ても、状況含めて憧れる人は残念ながらいません。だからでしょうか、描けぬ状態で”成長”なんて、なんの魅力があるのやら。

 

「そんなの、辛いだけなんじゃないの?」

 

 

日々を「凌ぎ」、毎朝痛みにバラバラになりそうになりながら、"明日"に「来るな」と願い、越えられるかどうかの「不安」を抱え込んで、どうにかこうにか息をする。そこに、「未来に対する希望」がないのなら、そんなの、辛いだけなんじゃないの?

 

繋ぐ先、欲する図像、恣の青写真、それらが無くば、「凌ぐ今」を位置付ける地図なくば、ただただ歯を食いしばる日々は、「辛いだけ」に成り下がるのだろうか。

 

この、地に足のつかない空転感覚は、受け容れ続ける日々の瓦斯が、からだを浮かばせているからなのだろうか。

 

 

「安心を売る仕事」だ、と、自分の肌感覚にしっくりくる定義をしてみた。

でも、一番安心したいのは、他ならぬ自分自身なのかもしれない。

誰かの不安に向き合い続けることで、不安を嚥下する術を探しているのかもしれない。

目的の為に、日々を逆の営為に晒すパラドクス。

 

 

「君はこの部署にきてよかった、と言ってくれたけれど、今も同じ様にそう思えているだろうか」

 

間隙を俟たずYes。こっちの世界を知らなかったらと思うと、ゾッとする。色んな人に、「そろそろ戻ってこないか?」と声をかけてもらえるけれど、風呂敷を畳むならやっぱり法に拠っている方が、きっと肌感覚に合っているから。”事業”はまだまだ、わからない。”あきんど”の感覚が、わたしには乏しすぎるのだろう。

 

「君の目標に”なんぴとにも休日を奪わせない"とあるけれど」

 

遊びたくて、休日を欲している訳じゃない。学ぶ時間が欲しいだけだ。襤褸布の様に帰宅して、寝て、寝たら朝が来て、なんて生活をしていたら、私は今の私以上のことは出来る様に、ならない。税も、法も、会計も、事業も。人に説けるところまでなんて、到底辿りつけやしない。「管理屋」になれても、「コンサルタント」になれない。目の前で「どうしたらいいかわからない。助けて欲しい」と俯く相手に対して、ことばが出てこない苦しさを、埋めていけない。困っている相手に対して「凌ぐ」なんて感覚でいることが、もどかしくてたまらない。

 

「しっかり"休む"ことも、大事だよ。寝不足の外科医に手術してもらいたいと思う?」

 

至言ですね。

寝不足のコンサルタントが描いた解決策なんて、怖くて仕方がないよ。

 

 

「さて。どうしようか。どうしたら君の、”目標”を描けるだろう」

 

目的なき状態で、目標なんておけるわけがない。

 

「うん、だから、徹底的に向き合って欲しいんだ。目的に。」

 

そう言って、「履歴書」と「入社してからの黒歴史」と「ねがいごと」を提出する様に、と求められた。

履歴書なんて、残っていない。そう思ったけれど、就活当時に書いていた膨大な日記があるなぁ、と思い出す。黒歴史ってなんだ。

 

しかしとにかく、入社以来やってきたこと、できる様になったことの棚卸をしてみよう、とは、想っていたことでもある。NPOに参加してプロボノ活動を意識し始めたこともあり、スキルセットを自覚するのは有用だと思うし、それが先に延べた「ナリワイ」探しのとっかかりになるかもしれない。

 

「入社した頃」に心にもっていたこと、今も喪ってはいないとは想う。

ただ一方で、踊り場にいる感覚、壁に突き当たっている感覚はある。

 

 

「頑張れていた頃の自分」を知っているだけに、「頑張っている感覚」が全く無い今を、異様だとすら思う。

 

 

”痛みに耐えて息をする、それだけ”の日々を、変えられるだろうか。

身近な人を、ちゃんと大切にできる様に、なれるだろうか。

 

数と量と質感と。触れる心の、

その接地面が増えすぎたからか、なんだかしっちゃかめっちゃか。

頭ン中だけの内省じゃあ追いつかなくなってきたことを想うと、

やっぱり書くコト=考えるコトという部分に戻ってこざるを得ないなぁと思う。

 

◆お仕事、との向き合い方

このところとみに、自分のしごと、というものはなんなのだろう、と反芻する。

仕事の中でふれあう人、お客様、上司、部下、学生、そして自身。

当事者それぞれの思惑と心にコネクトしていたら、重心がどこかへズレてしまって。

いまいち座りがわるい日々が続いているのは、いったいなんでだろう、と考える。

 

旧交を温めて関わることになったNPO団体で、そこに参画している方々に触れて、

「自分にできるコトを、具体的な事業に。」ということを、強く感じた。

BtoCビジネスで産業創造を、という業態ということもあり、具体的な消費者に、

どうプロダクトを届けるかとか、プロモ企画の運営に、どうしたら人員を動員できるか、とか。

これまで取り組んできたメソッドを体系化して、伝える力になれないか、とか。

そんな、「実業」に向けてあれこれと関わっていく人たちのレスポンスの早さや情報感度、「世の中に繋がっている」感覚が、なんだかとても新鮮だった。

 

 

ともすれば、BtoB中心の世界で、特定顧客のために役務提供を続けていると、

その世界の閉塞に囚われてしまいがちになる。

そうして、「この客のために」が、自分の中に本当にあるのか、ということについて、手放しに首肯できない自分がいる。

天秤にかけているのは、いつも自分の精神と身体で、そこにあるのは常に、

「どう回すか」「どうしのぐか」という発想である。

 

 

「早く終わること」を望むことと、

「次触れられるのはいつか」を気にかけること。

 

 

仕事に向かう姿勢として、あるいは自らの関心を測るものさしとして、

取り組むコト、関わるヒト、に対するこういう生々しい感覚が、

存外ホンネと適性を繋いでいる肌感覚は確かにあって。

 

 

凌いで生きてるな、という日々の感覚が、

自身にもたらす浮ついた「ハマらなさ」の一因なのかもしれない。

 

「できること」「知っていること」を、誰かに伝えるのは嬉しい。

そうしてその相手が、できるようになったり、安堵したりするのを見るのも、嬉しい。

 

他方で、自分にとっても未知なこと、知らないこと、に触れ続ける今の日々で、

10件前後のプロジェクトを抱えながら、全てに等しく心を砕けるわけもなくて。

なんとか「穴があかない様に」自転車操業で奔走している、というのが実情である。

 

 

真に寄り添いたいお客さん、にこそ、時間をきちんと割きたいのに、

状況がなかなかそれを許さない。あるいは、自身の不足か。

 

 

「安心を売る仕事だ」と、したいと決めた。

 

 

でも、途方も無いことだということにも、気付いた。

 

 

命の恩人、の様な上司と二人でご飯を食べながら、

今の部署、今の自分が触れていること思うコト、を伝えてみた。

「仕事はゲームだ」と語っていたその上司は、

一番私の肌感覚に近い言葉をくれた。

 

部署を異動になって、1年間を過ごした直属の上司が、管理職になった。

そうして、「覚悟を見せろ」とのたまってくる。

生贄の祭壇に、自身を差し出せと、こわれている気がした。

正直、コミュニケーションが上手いとは言えないこの上司と、

去年は大きく3度衝突した。そしてまたその萌芽が生まれている。

 

向き合うべきは私自身の弱さか、はたまた周囲で私を取り巻く現実そのものか。

 

矜持を護るため、命を護る為、なんだかとんでもないものを天秤に乗せて、

日々を必死に、「繋いで」凌いでる。

 

刹那、「今」をいきることに長ける、との診断結果を信じるのなら、

他方で、のぞむ「ありたさ」は、手のひらに載せておかなきゃ、という焦燥もあり。

 

 

 

いずれ破綻しますよと、率直なことばをもらった。

それを冷静に首肯する頭ン中の同意を、どう評価してあげるべきだろう。

 

もどかしさが、募る。

 

 

◆ひととのかかわりかた

どうにもやっぱり、サシと3人以上は全然別物だ。

その感覚は、どこまでいっても変わらないだろうと思う。

 

 

 

募る。

 

ある種、開き直れば

思考することを文字におこす作業も、そんなに煩雑なことでもなくなるんじゃないかな。

 

先週末の読書会のテーマ本、チャールズ・サンダース・パースの講演集より。

前回はプラグマティズムの流れを汲むウィリアム・ジェイムズの著作を読んだわけだけれど、それとはまた関心と語る対象がやや違うものと感じました。

 

過去来の哲学者とは、こんな風に風変りであった。

そんな語りから始まる全8回の講演より6編をまとめた本書は、推論についての考察から始まる。

それそのものが持つ本性・特徴、変化する関係性、そして変化に向かう種。

「連続性」という概念で世界の起こりから通底する原理を描こうとしている。

 

今回の読書会には10人弱が集まり、数学専攻の学生二人、物理学の博士課程の院生一人、政治学専攻一人、社会学専攻一人、社会人二人、ハイパー人類一人、かな。

いつも通り「おもしろかったところ気になったところを一人ずつシェアしていこう」ということで始まったわけだけど、一巡するのに2時間かかったよ!とんでもないよ!

 

参加者の一人からの提案で、「ものごとを理解する際に自分が用いている”イメージ”を図示してみよう」というワークショップがあったのだけれど、これがまた面白かった。

提案者から「自然観」「人間観」「社会観」の切り口と共に、「世界の構造」の理解(本質からの逆ピラミッドを積み上げていくことで世界のあらゆる事象を記述できるはず)の開陳を皮切りに、各人が思い思いに「世界の捉え方」を図示していく。

 

主催者の「光」の捉え方から見た「観測者の限界」と3項構造は快刀乱麻の応用性をもっていたし、自分の内面・記憶の認識部分が世界を通して世界実態を投影する、世界・言語という一点でのみ交わるひととひととは、本質的に誤解を多分に含まざるを得ない構造関係にある、という世界認識も、自分の内面に沸き起こるもやもやとしたアメーバ状の、とらえどころのない「原初感覚」に無理やり服を着せて全体を捨象する「言語化」へのもどかしさをよく言い表していた様に想う。自分の世界が終わっても、他人の世界は続く、だから世界は世界として続く、というのも、自分の肌感覚に合う。

 

さて私個人はライプニッツの『モナドロジー』を読んで以来、「包み包まれる」関係性、ねじれの入れ子構造に関心が向いている。

思惟する自分の、思惟の中には、時間も、空間も、すっぽりと収まってしまう。人間精神は、世界の総てを、過去も、未来も、全宇宙も、諸世界も、「想像しうる」と言う意味で、「包み込む」ことができる。

他方で、思惟する自分の「肉体」は物質として世界に厳然として在る限り、「世界」という空間に「包まれて」いるし、生成変化する「時間」にも一方向の不可逆に囚われている。

 

世界を包みうる精神の在り処は、またそれを包み込む世界の内側なのだ。

 

 

きっと今、ブルーノを読み返したら、また違う発見があるのだろう。