None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

話す、こと。そしてとまり木プロジェクト。

大学時代の後輩に、近況を聴きながらあれこれと紙に書いていたら、

「氷山モデル」なる、ひととの関わりについての図示を思いついた。

二つの氷山を並べて描いて、上部に水面線を引く。

水面から出ているところが、「他人に見せてもいいな」と手放しに想える部分。

水面下が、「自分にしか見えていない」領域である。

 

学校を始めとした社会生活では、この前者水面上の部分でのみやりとりをする。

「無難」で、「傷つかず」、社会上で合意をとれていそうな、その部分。

そうして私たちは、「見えている部分」で他人を判断するから、

水面下の部分を知覚しながら世界を見ている自分からすれば

「もどかしく」「おそろしく」「自分が変なのだろうか」などと悩んだりする。

自己開示をすれば、村八分にあうのではないか、そこまでいかなくても、

自分の好き嫌いを開陳したとき、それがマジョリティに受け容れれなくば・・・。

そんな「承認欲求」を裏返した様な不安に苛まれて、生きている。

 

「探り合い」で生きる、と言う感覚は多分に、そういう感覚からくるのだろう。

「親友」という感覚は、この「水面下」の部分の話をしても大丈夫だ、

という「安心感」を得た間柄なのだろうな、と思う。

 

そうして、「夢」とか「想い」とか「好ききらい」というのは、

「大衆バイアス」の様な「世間的に価値を是認されたもの」にそぐうもの以外は、

「表面化することに勇気を」伴う。

社会的に置かれた「正しさ」のものさし、「形式化された価値」に照らして、

正解探しをしながら生きている。

きっと、そんな感覚なのだろうな、と思った。

 

 

後輩が活動している学生団体のサマースクール(の様なもの)で、

活動最終日に泣く高校生が多い、という話を聴いて、

就活相談に乗っていると、その相手が泣きだすことが少なくないな、

ということを想った。

 

きっと、「安心するんだ」ろうな、と、想う。

水面下を、受け容れてもらえる場所があった、人がいた。

自分の個体が咥え抱え込んでいるこの水面下の想いを、

それがそこに「在るんだよ」って、みてくれる人がいた。

 

なんだかそれに、安堵する感覚なんじゃなかろうかと、

泣きじゃくった一か月前の自分を思い返して、想った。

うん、「視てくれている人がいる」「聴いてくれる人がいる」って、

こんなにも、安心するんだってことに、立ち尽くしたんだ。

 

 

 

なんだかそんな、「場所」を、創りたくなった。

 

 

思い返してみれば、そんな風に「話すことができる」場所を用意すること、

その場所にいること、その場所そのものになることが、昔から好きだった。

 

小学生の頃に創って4年くらい続けたHP運営も、クラスメイトに留まらず

学校の先生や他の地域のゲーム仲間を交えて、夜通しチャットに供したり、

当時通っていた塾で学んだことやらを基にテスト対策頁をつくってシェアしたり。

 

大学生の頃に好んで開いた「料理会」も、きっとおんなじ根っこで。

誰かと誰かの「橋渡し」に、誰かとその人自身の「鏡」に、

おんなじ想いを求める人たちのプラットフォームに。

料理をつくることも、喋ることも、音楽をやることも、

きっとそういう「場」をつくる、「場」になることに、向いていた。

 

そして今でも、そういう「場」であり「橋」でありインタープリターで在りたい。

 

 

卒業するとき、後輩にもらった「とまり木の様な人ですね」ということばを、

今でもとても大切にしていて。

だから、「とまり木」の様な場所を、ちゃんと創っていきたいと、想ってる。

 

 

コンセプト創りに関心のあるやつ、植物に詳しい人、カフェ好き、

お客さんの顔を見て淹れるコーヒーを選べる人、本屋さん、建築家、

土地もち、デザイナー、そして、経営コンサル。

  

幸い、とても活きそうな人の顔がいくつもいくつも浮かぶから。

やりたいことを、ちゃんと形にしていけたらいいなと、改めて思った。

 

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