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None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

『世界』を捉える白地図を、

手に入れていく感覚があって。

 

先週、今週と読書会があって、テーマとされていた本が自分にとってはそんな感覚で。『イスラーム文化』と、『ユリイカ』です。

 

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前者は宗教としての「イスラーム」を特徴づけるものについて、後者はエドガー・アラン・ポオが描いた「宇宙論」について。

どちらも日常生活ではなかなか自分の思考にのぼらないテーマなので、本を読むこと自体もこの本について話をすることにもエネルギーをかなり要しましたが、とても面白く感ぜられて。

 

私は特段、特定の宗教を信仰しているわけでは無いので、今まで「宗教」というものの構造枠組みをものさしとしてもっていませんでした。今回『イスラーム文化』を読むにあたり、「啓典」がもつ意味、背後にある神と奴隷の思想、「解釈」を具現化していった「イスラーム法」、聖俗不分離という宗教観念。

「日常生活」における、やってよいこと、悪いことを「神の命令と禁止」という形で定めた「イスラーム法」は、我々日本人が持っている「法律」に対する感覚とは大きく違うんだろうな、という気がして。平生我々が「法律」に出会うのは、何か「事が起きた」とき、「事を為す」とき。何かしら、意識的なイベントが起こらなければ、想起に登ることはなかなかないわけです。行動規範として「刑罰法規」が禁止作用として働いている面はあるにせよ、普段の意思決定、行動選択の隅々まで「法」を「認識していなければ神に対する背徳となる」なんて意思感覚は新鮮で、「倫理」に近い感覚なのかなと思いました。

 

大学時代法律を学んでいた身からすると、「啓典」と「イスラーム法」の関係性が、「神の言葉」と「解釈」という関係性にあることがとても面白く。唯一絶対、正しく真なる「神の言葉」。それ自体が絶対的に「正しく」とも、それを受け取る我々人間は、これを「理解するために解釈しなければならない」のです。コーランに書かれたことが全て詳細、一挙手一投足を描いているわけでは無い以上、啓典に記された「命令/禁止」の射程、範囲、行動様式は、捉える人によっててんでばらばらになりうる。実体法―抽象法規の射程を判例などを手掛かりに画していく感覚と同様に、ハディースムハンマドの言行録)などを手掛かりに学者が「解釈」をし、法規化してきた。それが「イスラーム法」であり、これは緻密な論理の集積により人間が神の言葉の背景にある神の意思を斟酌しようとした努力の結晶なのである。

 

とはいえこれの形成過程で様々な地政、権力、文化に触れ、「啓典」を同じくしてもなお、用いられる材料が異なったり、解釈の方法や在り方が異なったりした結果、「一体でありつつも異なる」派閥が形成されてきた。

 

そんな風に、「宗教の構造」と「形成過程」に触れることで、今自分が生きている世界で同時代を生きる人々が「信奉している世界像」というものさしを得られたことで、相対的に自分の立つ位置をおぼろげに掴めそうな気がしたのです。「現世」の捉え方ひとつとっても、それは「生き方」それそのものを揺るがしかねない程大きな事柄で。「人間の在り方」にフォーカスした、世界の捉え方。人格神との契約関係により規定される、自らの生き方。翻って自分は、何を自分の「規範」として日々行動を選択しているのだろうと問うて、得られた白地図に色を塗るのです。

 

 

 

もう一冊、『ユリイカ』。

こちらは我々が生きる「物質空間の構造」(に限らず、心身二元論で精神世界=神も扱っていますが)に着目した「世界観」。

我々の世界は、その始まりから終わりまで、たった三つの概念で説明できる。それはすなわち「引力」「斥力」「放射」である。

 

原初、神はただ「単一」な物質を創造した。

そしてこの単一な物質は「拡散」の嗜欲を以て、「放射」せられた。

在るべき姿は「単一」で、ただ一時的に「拡散」という意図をもたされた、物質。

こうして世界は始まった(ビッグバンという概念が世に表れるより100年も早く描かれた世界像)。

 

世界が「拡散」仕切り、その意図を達成した時、離れようとする力は消滅する。

すると、在るべき「単一」で在ろうとする力、すなわちニュートンのいう「万有引力」だけが物質に働き、世界はまた集束し、「単一」状態へと向かっていく。

 

こうして、世界は、単一→拡散→単一という変化を辿る。

そしてまた拡散し・・・それが心臓の拍動の様に、繰り返される。

 

これが、ポオの描いた世界像で、宇宙の原理で。

 

 

小学校で理科を習い、我々が地面に立っていられるのは「地球に重力があるから」となんとなく信じているけれど、その力について「世界全体を通底する」方法で世界を記述しよう、と言うのがまず凄い。

 

宗教と、科学と、哲学と。

すべてなべて、この世界のことを理解しようとして、色々の名で呼ばれる「神」を捉えようとして、人類が長い年月をかけて培ってきた「世界への理解」。

 

この二つの本が捉えようとした「世界像」、すなわち「神」と「人間」との関係、「神」と「世界」との関係に対する、ふたつのものさし。

 

きっと私は手に入れたこのものさしを白地図として、

これから出会うあれこれを、その上に塗っていくことができるのだ。

私もまた、『世界』を捉えることに目を向けさせられてしまった人間の一人として、こんな風に絵の具を置く場所を得られたのは、僥倖だと思うのです。