勇み足で、
自分の皮膚感覚に触れてみる。内面からみる自分の身体感覚の自己点検。
今日は『メディアはマッサージである』を読んでおりました。
次回の読書会のテーマであるマーシャル・マクルーハン。
メディアは「単なる媒介」に留まらず、それそのものがメッセージ性を帯びている。
形式の選択は、それそのものが意味合いをもつ。
特にこの本を読んでいてフックされたのは「アルファベット」開発以来の、
耳から目への認知感覚、思考感覚の移行。
「書き言葉」が語る、「断片的」で「特定的」な「流れ」の中での思考。
小説を思い浮かべて、目の前の風景を見てみる。
今私の部屋にはカルダモンの香りと、くるりの音楽とで満ちていて、
部屋の中には雑然と本やら服やらが散らばっている。
私の背中には無印の「人をダメにするクッション」があって、
重心は肩甲骨の後ろ。
そして私自身はキーボードをカタカタと叩きながら、
明日の仕事のことやらLINEの話し相手のことやらを考えている。
私が私の内面で感じている「今」の「全部」は、
ことばで認識しようとすれば、誰かに伝えようとすれば、
こんな風に、「順序」の中で「切り取られた」一部しか同時には存在できない。
どんなに言葉を尽くそうと、私が知覚するすべて、私が想起するすべてを
「同時」性を持って誰かに伝えることは、「ことばでは」できないんだ。
他方で、テレビなら。
拡張された「目」で、「同じ対象を同時的に」、視覚も、聴覚も、共有できる。
分析から、綜合への、認識感覚伝達媒体の、変化。
「伝える」方法は、こんなにも、拡張されてんだ、と、純粋に驚いて。
さて最近の関心事はもっぱら、この「伝えること」です。
職業柄、「伝わらなければ無価値」を突き付けられ続けていることもありますが、
就職活動真っ只中の学生の「もやもやした自分の感覚」をことばにするのにつきあったり、
身近な方々が向き合う誰かに伝えようとしてもがいている話をきいたり、
私自身が大きく壁にぶちあたったり。
「ちゃんと、伝えられるようになりたいな」
と思い立った5年前からすれば、少しはできる様になれたのかな、という感覚はあれど
「対面」以上の「伝え方」に「書き言葉」だけでは追いつけないし、
他方で「書き言葉」だからできること、に「声」だけでは追いつけないし。
また「視覚的に」示す資料作成においても、まだまだ直感的な表現には遠くて。
一瞥諒解、存在が説得力、みたいな「アート」の世界にヒントがありそうだと想い、
最近は専ら美術史に関心を向けています。
映画も、音楽も、絵画も、メディア。
私の「内面」と、誰かの「内面」の、彼我の途方も無い距離。
「とき」と「ばしょ」とを共有していなくとも、
あるいはそれ以上に、「届くもの」はなんだろう。
「届く言葉」を模索して今、手元の積読本を手に取る。
『街場の文体論』
さっきまで、『嘘みたいな本当の話』を読んでいて、
死も代替も感情も一緒くたに包む「事実の物語」に触れながら、
思わず「ひきこまれる」コンテクストって、
「言葉を尽くす」こととは直接的には関係なくて、
たとえそれがたった一文でも、「感情を動かす」構造があるんだなーと思った。
Amazon.co.jp: 嘘みたいな本当の話 (文春文庫): 内田 樹, 高橋 源一郎: 本
内面における『彼我の距離』という意味では、
昨夜後輩に薦めて貰った漫画を読みながら、「ホンネ」の在り処を想っていました。
『ラブラブエイリアン』が面白いですよ。
例によって例のごとく、背負うリュックに「積読本」を詰め込んでいたのに、
結局本屋に立ち寄って、そっちの本すら読み終わらず日が落ちる。
関心のフックはほんに浮気性なんだから。