既定路線に対する、
懐疑を以て、さぁ挑まん。
3月8日に行われた読書会のテーマ本。『脱学校の社会』。
「教育研究会」と銘打って選書がなされて数冊目、
ラテンアメリカより、「制度」への懐疑をテーマに。
「価値の制度化」に対する警鐘に、フックされた感覚があります。
「健康」は、「病院へ行くことで」達成されるものなのか。
「知性」は、「単位を稼ぐことで」築かれるものなのか。
社会が肯んじた「形式」に則ることが、「価値」を「価値たらしめる」方法となってしまったものって、少なくないのだろうな、と思う。
「学歴」「職業」なんてわかりやすく、ラベルを貼れる価値のものさしになる。
他方で、「それそのものの真実性」「たしからしさ」、というものを論ずるに、
寄る辺となる割り切りもまた、社会経済を想えば「形式」の功労なのだとも思う。
法技術としての「擬制」「要件事実の認定」や、「統計」あたりはなんとなく、
「こうだったらそうなんだ、”と、いうことにしよう”」が「正しさ」の権威性を帯びているイメージがある。
ところで「名画」を見たら「よいとこ」を探さなきゃならない、というような、「すぐれている」と言わなきゃならないと急き立てられる様な、あの「同調圧力」はいったい、なんなのだろう。「村八分」を恐れる連帯性なのか、「自分の感性」への寄る辺無さなのか。ランキングの権威性、然り。
「脱学校」というコンセプトは、「制度依存」が人間性―独力で問題を解決する力―を破壊する、という問題意識を結晶化したものだ。
「それに則っていれば”正しい”」を是認される、という仕組みは、
反射的に「則らないものを”誤り”」とみなす同調圧力をも内包している。
「レールから外れる」「ドロップアウトする」ことへの、落ち着かなさ、後ろめたさは、いったいどこからくるのだろう。
「周囲が出来ている―他の誰かにできること―を、自分は出来なかった」という負い目なのだろうか。そもそれが「できる」必要があるのだろうか、という、「規定された」価値観に向き合ってみる。
「学んだコト」は、「学校の中」で、だったろうか。
「大学」に通った意味合いを、考えてみる。私にとっては、庇護からの離脱”気分”、
自己選択の連続、居場所の創出と維持、自らの関心に則った集束と繋がり、といったものが、「大学で」得られたものだった様に想う。
友人、法リテラシー、居場所、というのもまたそうだろう。
他方で、「大学時代に」得たこと、という括りに拡大するのなら、それは「学校内」に留まることなく積み上げられるなぁとも気付く。
ではなぜそれは、「学校内部で」達されず、「学校外で」達されたのだろう。
「人と関わる場」という意味合いでみるのなら、内外に意味合いを見出せるだろうか。
「学習」とは、「学ぶ側」の態度であり、「教育」に拠ろうと拠るまいと、
学校であろうとなかろうと、それは周囲「環境」のせいに帰属できまい。
ただ、それには「学習のシェマ」が要る。
そう想う様になって、そのシェマを誰かに渡すことに関心が向いた。
ここまで書いてきて、やっぱり自分の中ではまだ消化不良なんだなぁ、と思う。
筆が乗らない。なんでかな?
「情理を尽くして」読み手に寄り添えている感覚が、まるで無い。
あの日に話して、あの日に思っていたことは、いったいどこへ行ったんだ。
「成人学習」と「動詞的弁証法」は、それそう言葉にしてみればなんとなくそれっぽく蘇りもするけれど、ではいったいそれはなんなのだ、と問われれば、トートロジーの壊れたおもちゃに成り下がるだろう。
うーん。難しいや。
話したりないのか、アルコールのせいなのか、読み足りないのか、恐れているのか。
指が快活に踊ってくれないのは、いったいどうしてなのかしらね。