夜更けのプッシュ、明け方の種拾い。
先週末、お仕事から帰ってゆったりと本を読んでいた深夜23時過ぎ。
「いまなにしてんの?」「本読んでるよ」「呑みに行こう」
そして初対面のご友人を引き合わされる、という予想だにせぬ展開。
もうぜったい寝るだけで一日が閉じていくのだと思っていましたよ。
それがおいしいクラフトビールにありつく夜更けになるなんて。
「自己紹介しなよ」
に促されて、さて何を話したもんかなぁと考える。
読書会で毎月近況と共にじぶんのコトをお話する機会をもらう様になって、
随分自分の話をすることには慣れっこになった感覚があるけれど、
あれは「読書会」という「場」があるから整うものだったのか、
違うコンテキストでは「同じ様に話し始められる」、というわけでもないらしい。
そして、私は中高の頃の話を始めた。
いま考えるとなんでそこから話を始めたのかよくわからない。
んで、私を連れだした友人とのなれそめを話して、という流れだ。
就活生によく、「あなたが誰か」を教えて欲しい、という話をする。
それは結局「何を」話して欲しい、という要望では無いのだ。
そう問いかけたとき、「何を話すのか」「何を選ぶのか」が、
あなたがそこにいる、という感覚。
中高大の話を流した私はそのとき、いったい何を伝えようとしていたのだろう。
他方でお相手は、友人との関係性と、”今”を語って下さった。
熱っぽく語るお話にはやっぱり魔力があるもので、ついつい惹きこまれてしまう。
生命の導線、なんて面白そうに決まってる。
そんな風に互いの話をするのを眺めていた今回の発起人が
「そうだったの?」と新鮮な反応をしているのもまた面白かった。
本人も言っていた様に、「相手は、自分との関係性の中での相手の一面でしか」見えていないものだ。
1対1の関係で閉じている間は、その関係性の中での顔しか、見せないもの。
「怒ったところを」見たことない、なんてのはだから、
1対1で関わり合っている限り、ザラにあることなのかもしれないな、とも思った。
だから、「普段の自分とは違うコンテキスト」の中で語る相手は、
「みたことの無い」相手として現出し、新鮮だったり戸惑ったり、するのだろう。
会社にいる私、サークル仲間といる私、ゼミ仲間といる私、家族といる私、
旧友といる私、誰かと向き合う私、誰かに寄り添う私。
全部、私。それでもそれは、月の顔の様で。
隣に居合わせたスカンジナビア人に問いかけられた。
「早い、うまい、いっぱい」と言うのに、
「早くて、うまくて、いっぱくて」と言わないのは何故か。
形容詞と形容動詞、なんて単語を耳で聴きながら、
はてそれをどう伝えたらいいのかまるで浮かばなかった。
普段使う言葉の品詞が、「なぜそう活用しないのか」なんて、
問うてみたことがなかった。
古文の”勉強”で形容動詞の活用を暗記していたのが懐かしい。
なんでなんだろね。と、
なんて伝えたらいいんだろね、のダブルバインド。
文系脳 / 理系脳。
先輩によく、「君は文系脳だからなぁ」と窘められていたのだけれど
どうにも腑に落ちなくて、何を拾われてそうラベリングされてんのかなぁ、
なんて思っていたのだけれど、「話していて、ちょいちょい”ん?”ってなった」
と語られて始まったその話は、見事だった。
アプライする脳、エクスプロールする脳。
与えられた命題を「所与」として、どう扱うか、どう活かすか、どう解決するか、を考える、文系脳。
与えられた命題を「懐疑」の対象とし、そも何故そうなのか、それは妥当なのか、その前提に乗って良いのか、を考える、理系脳。
さて私の仕事は、と。
無論、どちらも大切なのだ。
ことにコンサルタントという職業において、「成果へのインパクト」を問うとき、
それは後者の問を駆動することの重要さは言わずもがなである。
「問題の所在はどこにあるのか」を特定することが、課題解決の第一歩である。
しかして一方で、「与えられた状況下で、その道具を使って、どう問いに応えるか」
と問うことで、「相手の不安を払拭する」のもまた、求められている価値でもあり。
そうしてふと、私の仕事はやっぱり「安心を売る」仕事だよなぁ、なんて思ったり。
そんなことを考えながら、エクスプロールする脳で、普遍を、真理を求める、というものさしをもらったら、これでまた目が啓かれた。
「何を知りたくて」生きてるの?と。
「コンサルティングにおいて」普遍妥当するベストプラクティスの様なものを、
見出せるのか。明け方5時頃に、「プロジェクトマネジメント」における普遍を
問いかけて仕事にあたっていたら、拾える気付きも膨大になるだろな、
なんて思っていたけれど、そういえば今日はその分野の躓きに出会ったんだった。
「そもそも仕事の仕方が間違ってるよ」と。
「考えるのが億劫」「それは、わかる」
でも、と。
まだまだ、「軸」に据えるだけの練磨ができていないな、と気付かされた。
そして、前述の「普遍妥当」の探求、に照らすとしたなら、
こんな躓きも、全部が全部糧になるなぁ、と、ものさしの駆動を嬉しく想った。
問うこと。
あるいは、
問わないこと。
どちらもどちらで、処世術には組み込めるもので。
なんて、明日から社会人になる後輩たちのことを想いながら、
今日で丸3年を終える自分の現在地を思い返しながら、
「そも何故ここではたらくか」を問うて反芻する機会になったな、と感じている。
これだから、人とじっくり話すのが好きなのだ。