None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

数と量と質感と。触れる心の、

その接地面が増えすぎたからか、なんだかしっちゃかめっちゃか。

頭ン中だけの内省じゃあ追いつかなくなってきたことを想うと、

やっぱり書くコト=考えるコトという部分に戻ってこざるを得ないなぁと思う。

 

◆お仕事、との向き合い方

このところとみに、自分のしごと、というものはなんなのだろう、と反芻する。

仕事の中でふれあう人、お客様、上司、部下、学生、そして自身。

当事者それぞれの思惑と心にコネクトしていたら、重心がどこかへズレてしまって。

いまいち座りがわるい日々が続いているのは、いったいなんでだろう、と考える。

 

旧交を温めて関わることになったNPO団体で、そこに参画している方々に触れて、

「自分にできるコトを、具体的な事業に。」ということを、強く感じた。

BtoCビジネスで産業創造を、という業態ということもあり、具体的な消費者に、

どうプロダクトを届けるかとか、プロモ企画の運営に、どうしたら人員を動員できるか、とか。

これまで取り組んできたメソッドを体系化して、伝える力になれないか、とか。

そんな、「実業」に向けてあれこれと関わっていく人たちのレスポンスの早さや情報感度、「世の中に繋がっている」感覚が、なんだかとても新鮮だった。

 

 

ともすれば、BtoB中心の世界で、特定顧客のために役務提供を続けていると、

その世界の閉塞に囚われてしまいがちになる。

そうして、「この客のために」が、自分の中に本当にあるのか、ということについて、手放しに首肯できない自分がいる。

天秤にかけているのは、いつも自分の精神と身体で、そこにあるのは常に、

「どう回すか」「どうしのぐか」という発想である。

 

 

「早く終わること」を望むことと、

「次触れられるのはいつか」を気にかけること。

 

 

仕事に向かう姿勢として、あるいは自らの関心を測るものさしとして、

取り組むコト、関わるヒト、に対するこういう生々しい感覚が、

存外ホンネと適性を繋いでいる肌感覚は確かにあって。

 

 

凌いで生きてるな、という日々の感覚が、

自身にもたらす浮ついた「ハマらなさ」の一因なのかもしれない。

 

「できること」「知っていること」を、誰かに伝えるのは嬉しい。

そうしてその相手が、できるようになったり、安堵したりするのを見るのも、嬉しい。

 

他方で、自分にとっても未知なこと、知らないこと、に触れ続ける今の日々で、

10件前後のプロジェクトを抱えながら、全てに等しく心を砕けるわけもなくて。

なんとか「穴があかない様に」自転車操業で奔走している、というのが実情である。

 

 

真に寄り添いたいお客さん、にこそ、時間をきちんと割きたいのに、

状況がなかなかそれを許さない。あるいは、自身の不足か。

 

 

「安心を売る仕事だ」と、したいと決めた。

 

 

でも、途方も無いことだということにも、気付いた。

 

 

命の恩人、の様な上司と二人でご飯を食べながら、

今の部署、今の自分が触れていること思うコト、を伝えてみた。

「仕事はゲームだ」と語っていたその上司は、

一番私の肌感覚に近い言葉をくれた。

 

部署を異動になって、1年間を過ごした直属の上司が、管理職になった。

そうして、「覚悟を見せろ」とのたまってくる。

生贄の祭壇に、自身を差し出せと、こわれている気がした。

正直、コミュニケーションが上手いとは言えないこの上司と、

去年は大きく3度衝突した。そしてまたその萌芽が生まれている。

 

向き合うべきは私自身の弱さか、はたまた周囲で私を取り巻く現実そのものか。

 

矜持を護るため、命を護る為、なんだかとんでもないものを天秤に乗せて、

日々を必死に、「繋いで」凌いでる。

 

刹那、「今」をいきることに長ける、との診断結果を信じるのなら、

他方で、のぞむ「ありたさ」は、手のひらに載せておかなきゃ、という焦燥もあり。

 

 

 

いずれ破綻しますよと、率直なことばをもらった。

それを冷静に首肯する頭ン中の同意を、どう評価してあげるべきだろう。

 

もどかしさが、募る。

 

 

◆ひととのかかわりかた

どうにもやっぱり、サシと3人以上は全然別物だ。

その感覚は、どこまでいっても変わらないだろうと思う。

 

 

 

募る。