None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

一枚壁の向こうに

ある世界な気がしてしまう、人の口からきくお話。

 

事業環境。

世の中の大きなニュースが、経済に与えたインパクトが、大きなうねりとなって見える指標の折れ線グラフ。

きっと現場でしごとをしているたくさんの人が、陰に陽に肌感覚で感じてきたであろう、その時々の事柄を想うけれど、なんだか自分には遠い世界の話の様な気がしてしまうのは、自分がその余波にあてられずに生きているからに違いないのだろうな、と、なんだか他人事の様に想った。

 

帰りしな、日々触れているお仕事の中で、何か形にできることがあるんじゃないかなと、薄ぼんやりと考えていた。今日は朝から研修で、行政庁が金融機関なり中小企業なりに求める事柄と、そこに飯の種を見出す我々のできること、を改めて見つめ直す機会でもあったのだけれど、さて本日聴いていた事柄を、どこかの誰かにとって役に立つ様にできないものかなぁと、そんなことを想った。

 

日々私が触れている事柄は、おそらく案件進行―素直にプロジェクト・マネジメントと呼ぶべきか―なわけだけれど、これを研いでいけないかしらとふと思う。

関与案件14個、うちアクティブなものは半分くらい。全部身一つでこなそうとしても土台無理な話で、だとしたら人の力をお借りしなければならないわけで、とはいえ私が動かなければ世界は動いてくれないわけで、なんてことに気付きながらも、日々追いつかない手にもどかしさが募る。

 

「人に動いてもらう」というのはなかなかコツがいるもので、特段指揮命令系統をもつわけでもなし、たくさん貸しをもっているわけでもない私が、なんとか現実を動かして行こうとすれば自然、それは「お願いする」形を採るしかないわけで。

 

「組織」だったり「集団」だったり。

ひとりの力にとどまらず何かをしようとするとき、そこでは常にそれぞれの「思惑」と「状況」とが交錯する。

以前、後輩にツール(案件管理用の一般的なWBS)を渡してみたことがあるけれど、それ自体は魔法の杖ではない。ツールフレームワークは便利だけれど、それはあくまで補助輪であって、杖を振るのはあくまで自身。「伝えて」「動いて」もらわないことには、現実は思うようには動かないものだ。

 

世の中に、本はたくさんある。

調べれば、ネット上にそれらしい事柄はたくさん載っている。

 

貪るように読んできたし、今でも頼って触れることは少なくないけれど、

やはりそれは魔法の杖じゃあ、ない。

呪文を唱えるのは自身だ。

 

「ことば」は、便利だけれど、それそのものはそんなに強くなかったりする。

メールよりも、電話。電話よりも、対面。

それは本当にそうで、文字よりも声、声よりも表情が、人を動かす。

そんな場面に幾度も出会ってきたし、うまくいかないときはこれを忘れているときだ。

 

一本、電話をかけてみる。

声を、聴いてみる。

声を、届けてみる。

 

足を、軽くしてみる。

顔を、ちゃんとみてみる。

笑えているか、自分にたしかめてみる。

 

 

あたまんなかでうまくいっていた傑作は、

こうして現実に触れてやり直しを声高に叫ぶのだ。

 

 

 

 

そうしてやっと、一枚壁の向こうに辿りつけるのだと、

そんな風に、想った。