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None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

ある種、開き直れば

思考することを文字におこす作業も、そんなに煩雑なことでもなくなるんじゃないかな。

 

先週末の読書会のテーマ本、チャールズ・サンダース・パースの講演集より。

前回はプラグマティズムの流れを汲むウィリアム・ジェイムズの著作を読んだわけだけれど、それとはまた関心と語る対象がやや違うものと感じました。

 

過去来の哲学者とは、こんな風に風変りであった。

そんな語りから始まる全8回の講演より6編をまとめた本書は、推論についての考察から始まる。

それそのものが持つ本性・特徴、変化する関係性、そして変化に向かう種。

「連続性」という概念で世界の起こりから通底する原理を描こうとしている。

 

今回の読書会には10人弱が集まり、数学専攻の学生二人、物理学の博士課程の院生一人、政治学専攻一人、社会学専攻一人、社会人二人、ハイパー人類一人、かな。

いつも通り「おもしろかったところ気になったところを一人ずつシェアしていこう」ということで始まったわけだけど、一巡するのに2時間かかったよ!とんでもないよ!

 

参加者の一人からの提案で、「ものごとを理解する際に自分が用いている”イメージ”を図示してみよう」というワークショップがあったのだけれど、これがまた面白かった。

提案者から「自然観」「人間観」「社会観」の切り口と共に、「世界の構造」の理解(本質からの逆ピラミッドを積み上げていくことで世界のあらゆる事象を記述できるはず)の開陳を皮切りに、各人が思い思いに「世界の捉え方」を図示していく。

 

主催者の「光」の捉え方から見た「観測者の限界」と3項構造は快刀乱麻の応用性をもっていたし、自分の内面・記憶の認識部分が世界を通して世界実態を投影する、世界・言語という一点でのみ交わるひととひととは、本質的に誤解を多分に含まざるを得ない構造関係にある、という世界認識も、自分の内面に沸き起こるもやもやとしたアメーバ状の、とらえどころのない「原初感覚」に無理やり服を着せて全体を捨象する「言語化」へのもどかしさをよく言い表していた様に想う。自分の世界が終わっても、他人の世界は続く、だから世界は世界として続く、というのも、自分の肌感覚に合う。

 

さて私個人はライプニッツの『モナドロジー』を読んで以来、「包み包まれる」関係性、ねじれの入れ子構造に関心が向いている。

思惟する自分の、思惟の中には、時間も、空間も、すっぽりと収まってしまう。人間精神は、世界の総てを、過去も、未来も、全宇宙も、諸世界も、「想像しうる」と言う意味で、「包み込む」ことができる。

他方で、思惟する自分の「肉体」は物質として世界に厳然として在る限り、「世界」という空間に「包まれて」いるし、生成変化する「時間」にも一方向の不可逆に囚われている。

 

世界を包みうる精神の在り処は、またそれを包み込む世界の内側なのだ。

 

 

きっと今、ブルーノを読み返したら、また違う発見があるのだろう。