None Ta Ma

本と映画と音楽と、散歩しながら思い浮かんだことをつらつらと。

「そんなの、辛いだけなんじゃないの?」

向き合うのが3日越しになってしまいましたけれど、会社で上司と3時間にも及んだ面談。

さっき会社の携帯電話を確認したら、「連休中は出社しなくていいから、残り4日は面談で話したコト、よく考えて見て」とメールが来ていた。

なんだかかさぶたを剥がす感覚だ。

 

「最近どう?」

 

漠然とした質問を皮切りに始まった面談に、

 

「ひとときよりは落ち着いた様に想います。気持ちが。」

  

そう返して、この2ヶ月のことに想いを馳せてみる。

 

想えば、4月はよくやってたなぁ、とおもう。

『連続性の哲学』『マクルーハン理論』の読書会2本と『本の読み方講座』に出て、J-waveのライブに行って、パーティで料理作って、NPOに参画して、その勢いで他大学院の呑み会に飛び込んで、プライベートのあれこれに向き合い直して、そんな中で気付いたら残業3桁こなしてて。

 

書き連ねてみたら、自分のどこにこんなバイタリティが潜んでおったのだ、などとびっくりする。生来人見知りでめんどくさがりの私がよくもまあ。

 

「単刀直入だけれど、君の本音を聴きたい。君にとって、この会社に居ることは幸せなのだろうか?」

 

脚が空転している感覚があるのは事実。

 

「社外のひとと触れる機会も多い君のことだから、”ほんとにやりたい実業”が、”ほんとにいきたい会社”が、他にあったりするんじゃないのかな」

 

好奇心に拠って日々を食んでいるからさ、目新しいコト、モノ、ヒトに触れるのはテンションがあがるけれど、だからといって「他の居場所」をこと職業に関して、見定められてはいません。きっとそれは熱病の様なもので、なんとなく口にしてみているだけで。とはいえ、「ナリワイ」を模索していることは事実だなぁ、と思う。

 

まぁ職場でこんな本読んでりゃ気になるだろうけれど。

 

 

「君は、どんなことをしているときが楽しいんだい?」

 

お喋りですよ。あなたと軽口を叩いているときが、一番イキイキしているでしょう?

そう、誰かと安楽に話しているときが、楽しい時間なんだ。あるいは本読んでいるとき、散歩をしているとき、シャワーを浴びているときだ。後者三つは要するに、内省している時間、ということになるのだろうけれど。そういう意味合いでは、いままさにこうやって書き連ねている時間も好きな時間です。

 

「仕事では?」

 

なんでしょうね。楽しくて楽しくて、なんて感覚で仕事に向き合っていたことがあったかしら。一番、肌触りがしっくりくる感覚は、「凌いでいる」ということばです。

そう、日々、凌いでる。自転車操業で。「穴が開かなかった」「前に進んだ」「なんとか乗り切った」。お客様とのアポが、〆切が、毎日「越えなきゃならないハードル」として追い迫る。10件もプロジェクト抱えてたら、1件にじっくり、なんて言ってられなくて。うん、だから、私はいつも「凌いで」生きている。

 

「プロジェクトマネージャーとしては、それでいいのだと、想うけどね」

 

コンサルタントとしては、それでいいのだろうか?と疑問符だらけですけどね。

それでも日々、生起してくるお客様からの「質問」「課題」「要望」を打ちかえし続けて、お客様の都度都度の不安をやわらげられているのなら、そこには意味を見出してもいいんじゃないだろうか、と、今なら思えるかも。

 

「君はほら、よく学生と関わっている様だけど、それはどうしてなのかな」

 

"知っているか/知らないか"だけでどうにかなるもやもやを、晴らす術をもっているのに、それを伝えないことがもどかしいからなのだと思います。就職活動に向き合う学生さんに関わり続けているのも、ことばにすることにもどかしさを感じる誰かの鏡になるのも、きっと当時、あるいは今、自分が抱えて/知って/味わって/思い知ってきたもどかしさを自覚しているから、放っておけないのだと、そう思います。

 

「"教える"ことが、好きなんだろうね。」

 

中学生の頃、学校の先生になりたいと、想っていたくらいですから。

 

「そういう意味合いでは、クライアントに"教える"行為が、我々の営為であるし、そこに喜びを見いだせないのかな。」

 

行為として重なる部分はあるのだと、そう思います。ただ一方で、全ての役務がそうではないし、むしろそれは、自身の確信の差異が大きく横たわっているのではないかと思います。身近な人と向き合う際には、ある種「私が体験してきたこと」を伝えること、や「伝えたくなる土壌」の形成が主だった営為で、それは私の手になじむ「知っていること」がベースです。他方で、クライアントに向き合う際は、まだまだ「私自身にとって初めてのこと」だらけ。既に知っていることを伝えることと、自身初めて触れることを伝えることとの間には、雲泥の開きがある。「凌ぐ」感覚が強くなるのは、だからこその「不安」なのだと思います。

 

"毎日違う範囲のテストを抜き打ちで出されて、必死にテスト勉強をする感じ"とはよくいったもので、コンサルティングの役務を身近な営為に例えるなら、これがやっぱりしっくりくる。

 

読書会ではよく、自らの仕事を「話を聴けて、本が読めて、伝えることが出来ればできる仕事」だと説明するけれど、では何に「不安」を抱いているのだろう。誤っているかもしれない、伝わらないかもしれない。そんな不安を払拭するために、根拠探しに奔走して、伝えることばを選んで、伝えるイメージを描いて、それに形を与える。与え続ける。期限までに。

 

ロールモデルは、いるのかな?一年後、君はどうなっていたいんだろう」

 

能力に憧れる相手は居ても、状況含めて憧れる人は残念ながらいません。だからでしょうか、描けぬ状態で”成長”なんて、なんの魅力があるのやら。

 

「そんなの、辛いだけなんじゃないの?」

 

 

日々を「凌ぎ」、毎朝痛みにバラバラになりそうになりながら、"明日"に「来るな」と願い、越えられるかどうかの「不安」を抱え込んで、どうにかこうにか息をする。そこに、「未来に対する希望」がないのなら、そんなの、辛いだけなんじゃないの?

 

繋ぐ先、欲する図像、恣の青写真、それらが無くば、「凌ぐ今」を位置付ける地図なくば、ただただ歯を食いしばる日々は、「辛いだけ」に成り下がるのだろうか。

 

この、地に足のつかない空転感覚は、受け容れ続ける日々の瓦斯が、からだを浮かばせているからなのだろうか。

 

 

「安心を売る仕事」だ、と、自分の肌感覚にしっくりくる定義をしてみた。

でも、一番安心したいのは、他ならぬ自分自身なのかもしれない。

誰かの不安に向き合い続けることで、不安を嚥下する術を探しているのかもしれない。

目的の為に、日々を逆の営為に晒すパラドクス。

 

 

「君はこの部署にきてよかった、と言ってくれたけれど、今も同じ様にそう思えているだろうか」

 

間隙を俟たずYes。こっちの世界を知らなかったらと思うと、ゾッとする。色んな人に、「そろそろ戻ってこないか?」と声をかけてもらえるけれど、風呂敷を畳むならやっぱり法に拠っている方が、きっと肌感覚に合っているから。”事業”はまだまだ、わからない。”あきんど”の感覚が、わたしには乏しすぎるのだろう。

 

「君の目標に”なんぴとにも休日を奪わせない"とあるけれど」

 

遊びたくて、休日を欲している訳じゃない。学ぶ時間が欲しいだけだ。襤褸布の様に帰宅して、寝て、寝たら朝が来て、なんて生活をしていたら、私は今の私以上のことは出来る様に、ならない。税も、法も、会計も、事業も。人に説けるところまでなんて、到底辿りつけやしない。「管理屋」になれても、「コンサルタント」になれない。目の前で「どうしたらいいかわからない。助けて欲しい」と俯く相手に対して、ことばが出てこない苦しさを、埋めていけない。困っている相手に対して「凌ぐ」なんて感覚でいることが、もどかしくてたまらない。

 

「しっかり"休む"ことも、大事だよ。寝不足の外科医に手術してもらいたいと思う?」

 

至言ですね。

寝不足のコンサルタントが描いた解決策なんて、怖くて仕方がないよ。

 

 

「さて。どうしようか。どうしたら君の、”目標”を描けるだろう」

 

目的なき状態で、目標なんておけるわけがない。

 

「うん、だから、徹底的に向き合って欲しいんだ。目的に。」

 

そう言って、「履歴書」と「入社してからの黒歴史」と「ねがいごと」を提出する様に、と求められた。

履歴書なんて、残っていない。そう思ったけれど、就活当時に書いていた膨大な日記があるなぁ、と思い出す。黒歴史ってなんだ。

 

しかしとにかく、入社以来やってきたこと、できる様になったことの棚卸をしてみよう、とは、想っていたことでもある。NPOに参加してプロボノ活動を意識し始めたこともあり、スキルセットを自覚するのは有用だと思うし、それが先に延べた「ナリワイ」探しのとっかかりになるかもしれない。

 

「入社した頃」に心にもっていたこと、今も喪ってはいないとは想う。

ただ一方で、踊り場にいる感覚、壁に突き当たっている感覚はある。

 

 

「頑張れていた頃の自分」を知っているだけに、「頑張っている感覚」が全く無い今を、異様だとすら思う。

 

 

”痛みに耐えて息をする、それだけ”の日々を、変えられるだろうか。

身近な人を、ちゃんと大切にできる様に、なれるだろうか。